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スケッチの話
※note(SNS)掲載分を、当サイト掲載向けに加筆修正したものになります。
当webサイトのノートでは、こんな感じのスケッチを公開していることがあります。
これらは実際に、目の前にある静物や風景、人物をその場で描いたスケッチになります。主にボールペンや筆ペン(薄・黒)など色々使っていますが、要はアナログかつ、鉛筆のように描き直せる画材は使わないことがほとんどです。以下、この絵は何なのかという話をします。
スケッチの目的
始まりは学校の「課題」から
絵の学校に入学して最初の一年目に経験した課題の中で、今でも忘れられないのは「人物クロッキー」の課題です。(※クロッキー:線だけで描く。陰影を作らず、短時間で描く)
「通学時間を使って、電車の乗客をスケッチブック1冊分描き尽くす」というもの。使う画材はボールペン一本、家でも学校でもない場所で、自分とは何の関係もなく動き回る赤の他人を描くという課題です。
沁みついた受験デッサンの癖を「今すぐ落として来んかい」と言わんばかりの実践的な助言の下どうにか描き切って以来、学校を出てからも何となしにその習慣は続きました。とはいえ毎日欠かさずではありませんでしたし、これまで一度も惰性の時期が無かったといえばウソにはなります。
それでも、今日に至るこの習慣にもたらされた恩恵は計り知れません。それは絵を描く事に対してだけではなく、思考や感性そのものに対してもたらされたからです。まず初めに現状、「何を目的に描いているか(スケッチにどういう恩恵を求めているか)」という話をざっくり書いていきます。
① 訓練としてのスケッチ
先の話でも触れたように、学校を出てからもスケッチの習慣は続いたものの「毎日欠かさず」ではありませんでしたし、それは今もそうです。しかしながら、描くことに対する心理的な抵抗感(「なんかダルいな」という感覚)は案外、惰性でも何でも手を動かす習慣によってしか払拭されることがないな、というのが自分の経験則上の答えでもあります。
それは「鬼ごっこ」という経験がなければ咄嗟の危機回避に「走って逃げる」行動を選ぶのが難しい、というくらい単純な話ですが、私はこうした瞬発力を創作活動において重視します。
つまり、捕まえたい情景をいつでも捉えられるフィジカルの訓練として、今もスケッチを重宝している面が大きいです。
※「じゃあ写真でやればよくないか?」とも思わないのは、写真であっても基本は同じことだろうと思うからです。撮るべき・撮りたい瞬間を捕まえられるようになるには様々な労力があるはずで、絵と写真は互いにそう軽々しく代替できないという認識があります。
②美意識としてのスケッチ
自室でやる静物画を除き、実物を外で描く際は訓練以上の意図があります。
これをやるためです。
絵やそういう類をやっている最中、人はたいがい「家の中」「独り」「自分の世界」という具合に意識が内へ向かうことが多いです(多分そうです)。そこへ、部屋の空気を入れ替えるように「外」の血を入れる、そのためにたくさん映画や漫画を観たりすることを指して「インプット」と呼ばれることがあります。私の場合、スケッチはインプットの一種です。
こちらの創作活動の都合とは何ら関係が無く、こちらを露ほども意に介さず通り過ぎる人、動植物、再現性のない景色と時間は、何よりも刺激的で飽きることのない彩りそのものです。「不特定多数を魅了したい・誰かの心の中で生き続けたい」などという邪な作為から遠い営み、その彩りには、実際何モノにも代えがたい美しさがある。
言わばそんな刹那的な彩りを押し花のようにしたためたいとか、そんな邪な欲望に基づく動きがスケッチ、という感じです。そんなこんなで捕まえたい情景をいつでも捉えられるフィジカルと、その躊躇のなさがどうしても自分には必要というわけです。
結局のところ
「なぜ、わざわざ現場で描くのか」
「画像検索や資料集ではあかんのか」
という話です。
※この記事を書いている人間はデジタル作画や3DCGの使用、自前で用意した写真をトレースした絵などを否定しません。作品に3DCGを用いるのは自分でもかなりやっていたからです。また、生成AIの是非はここでは話していません。
ネットに存在する画像は100%人間の意図を介して共有されています。画像がそこにあるのは、何らかの理由でそれを「見せたかった」人間がいるからです。いきいきとした大自然や動物の定点ライブカメラでさえそう。つまり、そういった何者かの意図を、わざわざ私が描くことによって再生産する理由がないというのがその答えです。
描くための訓練であるならば尚、ネットの画像を選ぶ必要がない。パースもマテリアルも物理法則も、異能漫画を描くとかそういう事でなければ手近にある見え方が正しい。だったら「彩り」を感じる方と向き合いたいよねという、身勝手な美意識にそうさせられているという限りの話です。
スケッチを通した変遷
「変化を受け入れる」考え方
物心ついたころから描くことを始め、下手の横好きを貫きながら絵や作詞・作曲をやってきた中。作るという「行為」だけは完全に身体の一部として馴染んでしまったものの、「何を」描きたい、表現したいという己の欲(先ほどの「彩り」の話です)が明確になったのは本当にここ最近の話です。
何を描きたい、表現したいという像が曖昧なまま、作る力だけがある程度手元にある。そんな長い迷いの中にいた理由は実に様々ありましたが、
「創作をやるならば、作家性を明確に定義し作風を一貫しなければない」
「キャラぶれは日和った証拠、許されない」
とか、
「創作の社会的な役割は、うんたらかんたら」
「創作とは、誰かを癒すものであるべき」
「誰かの心のなかで、時代を超えて生き続けること」
「末永く「遺す」こと、その不死性こそが創作の意義」
とか、
「それが出来なければ、この命は穀潰しかなあ」
とか、大雑把にはこんな感じでした。
現時点で私がこれらをナンセンスとするその心については、先ほどまでの「彩り」の話と照らし合わせることで大筋の意味合いを掴んで頂けると期待します。むっちゃ大袈裟ですが一言でいえば諸行無常とか色即是空とかそういう感じだと思います。人もモノも誰しも変化の渦中にあり、「創作」という営みだけがその変遷を免れるべきというのは些か傲慢で、作品という形あるものに不変性を見出し執着する表現や生き方を今となっては何か不合理に感じる。
が、それはそれとして
刹那的な彩りを押し花のように紙にしたためたいとか、そんな邪な欲望
に、忠実でいること、つまりそういう不合理な創作活動もまあまあおもろいんです。当分は止められそうにありません。時々その空虚さに気付いてしまって急に止めたくなるときもありますが、それも大概その時限りの話です。
注釈と今後
ここ数年の間に世の中の価値観が大きく動き、創作という営みの持つ加害性が争点となったり、言うなれば色々と過渡期なんだろうなあ、という現時点において「外で通行人だの人んちだの勝手に描くのはとんでもねえ!」みたいな時代がいつやってきても不思議じゃないな、みたいな不安が正直ゼロではなかったりします(実際、そういう局面を何回か経験しているからです)。
しかしながら今ここで語ったような美意識を引き合いに出して「創作という営みの意義深さ」を主張したり、描くことを他者に認めさせようというのもそれはそれで本意じゃないですよということだけは、最後に明記させてください。ここでお伝えしたことは、創作活動において「意義」「価値」「認められるべき」「後世に遺すべき」みたいなどうでもいい執着から自由になりたい私が、これまでに何を経て今は何をしているかという話に過ぎません。創作という営みの広く社会的な影響について、ここでは一切カバーできていないことをご理解願います。
モノも人も時間とともに正しく朽ちて消えてゆくという前提のもと、手元に遺らないと知って尚なんやかんや拾い集めていく、そういう感じのお話でした。