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「作者の自我」の話
※note(SNS)掲載分を、当サイト掲載向けに加筆修正したものになります。
インターネット上で作品を公開するにあたって「作者の自我」をどの程度晒していいものか、というよくある話に対する現時点の答えを自分なりにまとめています。あくまで現時点の話なので、そのうち加筆あるいは続きを書くかもしれません。そんな深い話じゃないです。
本記事での定義
「作者の自我」とは
この記事では「作者の自我」という言葉で、プロアマ問わず作家やクリエイターによって語られる作品ではない情報ないし言動全般を指していこうと思います。要するに漫画家が漫画家アカウントで、ボカロPがボカロPアカウントで「ラーメン食べたい」とか言えばそれは作品ではないので「作者の自我」です。そしてラーメン食べたいとか彼女が出来ました的な明らかに作品とは関係ない作者個人の近況はもちろん、「作者が自分の作品について語る」「作品に影響を及ぼしたかもしれない経験談を語る」みたいな話も作品を「外側」から語る行為なので、作品ではない情報とみなし「作者の自我」の方へ含めます。
※「エッセイ・実録系」はどうなるねんという話ですが文脈上、ここでは「作者の自我」ではなく作品扱いで話しています。そして所謂「メアリー・スー」的な話(作者の自我というか願望というかがむっちゃにじみ出てしまった作品系の話)は、ここでは一切触れていません。
「自我なし運用」とは
「作者の自我」の対義語のような概念として、この記事では「自我なし運用」という言葉を使います。つまり作品ではない情報ないし言動全般を慎む運用法を指します。絵描きなら本当に画像しか上げてない、みたいな感じがイメージしやすいと思いますが、もう少し広い意味で言えば「クリエイター自身にキャラクター性があり、そのようにロールプレイを徹底している場合」などもある意味「自我なし運用」ではないかなと思います(デーモン閣下的な)。その場合は作家自身のふるまいも表現の範疇ですので、発表している作品とは直接関係のない「ラーメン食べた」みたいな話であってもそれは作品の描写の一種だろうと考えます。
「作者の自我」問題
「自我なし運用」への憧れ
実際にweb上で作品を公開している身として、この「作者の自我」をどう扱っていくべきかは相当悩ましいところがあります。作品外のどうでもいい情報を作者自ら晒すことによって、作品の印象に影響するのは良くないだろう…という配慮であったり、そこまで考えが至らなくとも「作品を公開する場所に封切ったポテチとかを並べてるみたいでなんかイヤ」くらいの直感的な居心地の悪さだったり、作品を発信する側の視点に絞ってもまあまあそういうことを考えます(鑑賞する側としての話はここではしません)。
要は作品を「自由に解釈してほしい」または「鑑賞者に自由な気持ちで楽しんでほしい」と思うからこそ、「作者の自我」は、あればあるほどジャマなだけではないか?という考え方が発生するわけです。
現状、Xアカウント廉価魔術では若干「自我なし運用」っぽいことをしています。が、正直な話この「自我なし運用」は決して無敵ではないというか、それはそれで危ない部分もあるよというちょっと具体的な話をします。
「自我なし運用」の危険性
「自我なし運用」をやりたいと思った当時はまさに「作者が何か言うことによって、受け手側の作品への解釈を狭めたくない」「自分の作品を楽しんでいただきたい」という気持ちがあったからだろうと思うのですが、その発想自体がある意味デメリットと表裏一体という感じです。つまり「自我なし運用」とは、作家都合で作品の解釈を限定できないということです。
一見何が悪いのか分かりにくいと思うので例えばですが、私が冬場の景色を描いた絵を載せていたとします。正月に書いたのでほとんどの店はシャッターが下りていて、街路樹も枯れ木だったとします。その絵を見て何かもの悲しさを感じるとか、逆に正月飾りが描かれているので「そういうことか!」気付く人がいるとか、であればどちらも自由な解釈の範疇です。
が、もしも同じ作品を見て「枯れ木ばかり描かれているので作者は心を病んでいるに違いない!この作家は●●(具体的な病名)を患っている!」だとか、「これは地方都市の衰退を嘆いている、故にこの人は●●党支持者である!」というような感想を実しやかに述べてしまう方が一人でも居たらどうでしょうか。もっと言えば、「お前は私のストーカーだから、私の家の近所を描いたんだろう?」などと全然知らない人に詰め寄られたらどうでしょうか。
極端な話に思われるかもしれませんが、過去にこうした事案をいくつか経験しております(大分ボカして書いているためマイルドな方です)。正直な話「自我なし運用」であっても無くてもこういう事は割かし遭遇し得るのですが、積極的にこの運用をしていると明らかに「ない」話をあたかも事実のように誰かが発言した際、言われた側が後出しで弁解していくのは実際まあまあ大変です。一度付いてしまったコメントを自分で非表示にするとかいうのもなかなかめんどいです。
基本的にこのあたりの面倒臭さをある程度承知の上で、適度にスルーしていく気概がない限りなんやかんや自我なし運用は厳しいものがあるように思います。
なお、先述のような例の他によく聞く話であれば「これ俺のアカウントなんだぜ!!」と勝手に成り済まされてしまう、みたいな話が一番有名だと思います。また近いシチュエーションですと、例えば私の預かり知らぬ場所で「それがしが廉価魔術じゃ!」とか言いふらす不審者が突如出現してしまった場合、そこへ当方が「本物は私です…」と出ていったところで誰も本物の人となりを知らないとなると「どっちが本物か」なんて誰も判断しようがない…。そういった状況も考えられなくはないでしょう。そして、これらも先述までの話と同種の危険性だと思われます。
もちろん悪いのは絶対に作家ではなく成り済ます側ですが、どちらも作家が自身のパーソナリティを他者の認識に委ねた結果発生している問題です。ある意味「自我なし」は作品だけでなく、作家自身の人となりをも観る側の認識・解釈に丸投げしているような状態なので。ゆえに作家としての「自我なし運用」は(度合いにもよりますが)、なんらかの広報アカウントや公式アナウンスでない限り「作家はヒトである前に作品」つまり作品だけでなく作家に対してもある程度自由な解釈を認める、くらいマジの覚悟を徹底できていない限りは基本やらんほうが無難ちゃうかというのが現状、私の考えではあります(個人の感想です)。
それくらい自我の薄いアカウントは、傍目には人間として認識されにくいようなので。
結論
「作者の自我」というバリア
ともかく「自我なし運用」のメリットと問題点、それに対する自分なりの考えを述べてきましたが、その対策というか折衷案のような形で導入したのがこれ(ノートのこと)でした。正直、最初はやるかどうかかなり悩みましたが…。
このノートの内容は、この記事の定義でいうと明確に「作者の自我」の部分です。つまり、ここに書き連ねているような話は基本的に作品「外」の情報という認識でやらせていただいております。作品として書かれていないということは、要するに「受け手の想像に委ねない、解釈の余地がない文章」ということです。
私は、私自身の為人について自由に解釈されることを望みません。「作者の自我」を一定の範囲に限りこの場で晒すのは、そういう意志表示(=バリア)です。しかしながら、このバリアが作品の方に影響するのは避けたい。だからこそ見に来る意志のある人間であれば誰でも見ることのできる、この場所でそういったことをしているという感じです。