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創作は呼吸ではない
※note(SNS)掲載分を、当サイト掲載向けに加筆修正したものになります。
「創作は呼吸である」と長年自負してきた自称アマチュア作家・権兵衛るは、そうした過去の自身の在り方に対して今はかなり批判的である、みたいな話をします。かつて強く創作活動に依存した己の「没頭」への反省と考察です。要するにただの身の上話です。
「創作意欲」の根拠
前提としてある程度経歴を明かしておく必要があるものの色々と恥が多すぎるため、約30年間の人生のうち創作に関する部分だけをダイジェストで駆け抜けます。
- ほぼオタクやクリエイターしかいない家系に生まれ、当然「そのように」育つ
- 頭の中にしか存在しない絵本「おそうじマン」が本屋で売られていないという理由でギャン泣きし怒られたときから「欲しいものは自分で作る主義」に目覚める(幼少)
- 作ったものを理解のない他人にボロクソ馬鹿にされ、理解のある身内にボロクソ批評されつつ、なんとなく将来は自分も創作を生業にするだろうと考える(小中学生くらい)
- 中学生を頑張り過ぎて燃え尽きたため、高校にはあまり行かず音楽やお絵描きに没頭、そのまま絵の学校へ進学(高校生)
- 絵しかやらん4年間(大学)
- 一応それっぽい会社に就職し、本業で学んだ技術を創作に活かしたりその逆をやる二足のわらじ(現在)
今にして思えば、自分が何かを作ろうと思い立った時はたいてい、こうした出来事を頭の中で反芻してきた節があります。己の創作意欲に疑いを持たないため(作ってる間正気に戻らないため)です。今ここで自分が「作る」という判断をするのは因果関係的に必然である、という自己暗示の根拠として、ここに挙げたような出来事を思い返しては「没頭」へと奮い立たせてきた、という話です。
「没頭」の始まり
この記事で語る「没頭」とは、作っている最中の無我夢中な状態だけにとどまらず、作っていないときに感じる「作らなければ死ぬ!」という感覚をもその範疇に含むものとします。何かしら創作活動をする人間でもこういうトランス状態を経由する人としない人とがいるようで、人によっては何のこっちゃという感じだと思いますがそういう感覚があったという話です。体感的には前者の場合「頭の中で思い描いた世界が実際に見えている、あるいはそのメロディが聴こえている(ので、現実の視界や音はほぼ感知できない)」「筆圧という感触が快感すぎる」みたいな状態、後者は「脳がパンクして爆発して死ぬかもしれない、苦しい!」という感覚です。
自分の「創作意欲」は「こういうテーマを伝えたい、何かを表現したい」という精神的・思想的な動機とは全く別軸に、こうしたフィジカルな欲求に基づく意欲というものが結構な割合を占めているらしいです。そう確かな自覚を持ったのは大学時分のことでした。それまでは特段それを珍しいことだとも思わず(先述のような家系ゆえ、身近な人間が皆そうだった)、むしろこの状態に至るたび学業が疎かになるので、どちらかというと克服すべきハンデと捉えることの方が多かったくらいです。
今にして思えば、実際に絵の学校へ進学し、思う存分それを満たせる環境に恵まれなければ(それが今の生業に繋がることがなければ)、この「没頭」を肯定的に捉えようと思う事はなかったかもしれません。克服すべきハンデと思われた部分をそのままポジティブに活かせる、それを許してくれる最適な環境に恵まれた事は、何より幸運で有り難いことでしたし、その認識は今でも変わりません。
「没頭」の功罪
しかし、これは所謂「個性を伸ばせてよかったね」という類の美談ではありません。(実際、作る事が仕事になったり、自分の思い描いた世界が本の形になったり、ギャラリーに並んだり、CDの形になったり。在りし日の夢をいろいろ叶えはしたのですが….)
「没頭」という状態を通して創作活動に耽溺するというあり方は、たとえそれが如何に良いものを産もうとも、本質的には生活、時間、人、この身体や精神をも顧みない振る舞いということでもありました。とはいえ、それによって具体的に何かデカいものを失った、例えば莫大な借金を負うであるとか、大病をしたであるとか….というような事は今のところまだ無いと言えば無いです。そう言い切ってしまいたくなるくらい、失ったことにも気が付かないほど鈍く緩やかに、実際にはさまざま壊れていたのだと気付かされたのが、だいたい昨年末から今年の初めくらいの出来事です。
この頃は身内が亡くなったことを発端に、今まで疎かにしてきた現実と否応なく向き合う事が増え、それは創作活動のあり方に対しても及んでゆきました。このとき同時に「没頭」が失われました。己の創作意欲を自覚し「創作は呼吸」などという自負を掲げ始めたあの頃以来、10年ほど溺れっぱなしだった夢から突然目醒めてしまったように、頭の中を満たし続ける壮大なフィクションを命懸けで描くことに意義があるとは全く思えなくなったのです。
今まではとにかく「自分が死ぬと同時に消滅してしまう想像の産物」を、極力もれなくこの世に受肉させるために作品を作っているような節がありました。しかし、実際それをいくら形にしようしても「想像の世界」は尽きることがないのですよね。今手元にない大金を思い浮かべて億万長者の気分を味わうことも、この世に存在しない人間を思い浮かべて出会った気になることも、「想像の世界」であれば無限にできてしまう。そうしている間にも現実の身体は今まさに朽ちていく最中にあるにも関わらず。
少なくとも今よりは確実に衰えゆく身体に、今と変わらぬ創作への貪欲と執着を燻ぶらせたまま生きていく。そういう近い将来の苦を思わない日がなかったからこそ「やりきった」と満足できるところまで、意欲が底をつくまでやってやろうと、これまでは思い続けてきたものの…。
その頃スマホのメモ帳には、来年(2024年)やる作品の草案、楽曲の歌詞(20曲分くらい)、その公開日時などが実にびっしりと書き込んであったのですが…。それらを書いた時点では間違いなく「これを世に送らない限り死んでも死にきれない!」くらいには思っていたはずです(以前は何かを作る際、常にそう思っていました)。それでも、そうして大事に集めてきた金貨の山は幻で、実はすべて枯れ葉だったと気づいてしまったかのように、「それ以前」の自分が書き溜めたアイデアの殆どはここで意味を失っていました。
しかしながら費やした時間の長さだけその真実は受け入れがたく、だったら落ち葉でも何でも愛してやればいいじゃないかと無理くり形にしてやろうと挑んだこともありましたが、疲弊しきった身体がまともに動くこともなく、これまで己を奮い立たせてきた創作意欲の根拠たちでさえ、思い起こせば起こすほど「それってただの(現実逃避の)言い訳じゃないですか?」としか思えなくなり。
「それでも自分の作品を好んでくれている人はいただろう、そんな風に自分を卑下するのは失礼じゃないか」というただ一つの正論でどうにか持ちこたえようとはしたものの、そうして「他者」に依らなければ意味をなさないのであれば少なくとも創作が「呼吸ではなかった」ことだけは確かでしょう。出自のうちのそれらしい出来事を根拠に「作らなければ死ぬ」という言い訳を補強し、創作活動という名の虚妄に没頭することで、それ以外を疎かにすることを許されたいと思った。「創作は呼吸である」というのは、そういう方便にすぎなかった。
もしもこれが創作活動ではなく酒やギャンブルの話だったとしたら、如何にとんでもない話であるかはすぐに分かりそうなものですが…。特に疑問にも思わず、むしろそういうあり方を理想と信じて生きてきた、までありました。今思えばですが。
「没頭」の正体
そこから数か月ほど希死念慮に支配されつつ、それでもまあまあ体力は戻り、仕事もしていました。しかし創作のことはあまり考えたくなかったので、よくわからん気晴らしをいろいろやっていました。スーモのアプリで全然知らん街の物件情報をひたすら見るとか、現職と全然関係ない職種の転職サイトを眺めるとか、ひたすら歩き回るとか色々やっていました。創作以外に何の趣味も関心も無いからです。
何やかんやそのまま習慣化したのは、散歩と筋トレでした。先に「自分の「創作意欲」はフィジカルな欲求に基づく意欲が結構な割合を占めている」という話をしましたが、実際、それまで創作という呼吸でしか解消し得ないと思われたところが、実は身体的負荷であればなんでもよかったらしい、つまり筋トレで代替可能であるということにここで気付いてしまいました。
いよいよ「没頭」というものの正体が掴めたように思いました。恐らくそれは、一時的な(麻薬的な)快楽への執着と貪欲に他ならないらしい(要するにワーカホリックなんやろな、と)。頭の中ではまだ疑いの範疇でしたが、体感を伴ったことでようやくそのように確信を持つことができました。
「創作意欲」の変化
絵の変化
ある日、ふと何か描きたいという気持ちが湧きました。しかし描きたいものがない。もう「自分の頭の中にしか存在しない」ようなものを描いても仕方がないだろう、と思ったからです。
とりあえず駅で人を描くことから再開しました。数日それを続けるうちに、少しずつそれまでとは異なった意味合いの創作意欲が湧いてくることに気付きました。ここでは己の内にないこの世というものが本当に広がっていて、人々は実際に自ずから意志をもって動いている。そういうありのままの世界が疑う余地も無くそこにあり、自分も一部であり、以前からそうであったらしい。描く事によって、そういう実感が確かにありました。
こちらの創作活動の都合とは何ら関係が無く、こちらを露ほども意に介さず通り過ぎる人、動植物、再現性のない景色と時間は、何よりも刺激的で飽きることのない彩りそのものです。「不特定多数を魅了したい・誰かの心の中で生き続けたい」などという邪な作為から遠い営み、その彩りには、実際何モノにも代えがたい美しさがある。
言わばそんな刹那的な彩りを押し花のようにしたためたいとか、そんな邪な欲望に基づく動きがスケッチ、という感じです。(log #0a参照)
音楽の変化
こんな状態ではありましたが、前々から買う予定でいたフリモメンSVの発売日が発表されてしまいました(しかも結構間近)。しばらくDAWを触っていなかったため結構焦ったのですが、少しでも手を付けてみることに。
このように様々な心境の変化を経た上で、少しずつそれまでに作らなかったタイプの曲をやりたいと思うようになりました。先ほどのスケッチの出来事を経た上で、漠然とこの世そのもののような、ある種等身大で視界そのもののような詞を書きたくなったからです。そのために割かしさまざまディグり倒したと思います。自分自身の内面と距離を置くためです。毎日知らん曲いろいろ流すようにしていました(そのうちプレイリストの話とかします、忘れていなければ)
そして遺作へ
良い感じの締めの言葉が思いつきません。なにか結論を出そうにも、生きている間にまだ何度かこういった変化を繰り返していくんじゃなかろうかという気がしないでもないからです。
そもそもこうして文章を綴るようになったのは、「以前(2023年より前)と比較し作風が大きく変わってしまったことについて、どこかのタイミングでその理由を明言しておきたい(その必要があると思う)」という旨を廉価魔術(@M_cheapmagic)/ Xで話していたからなので、今回の記事が一応、その話の総まとめになるのかなと思います。これまでの投稿記事も、実はこの記事に至るまでの導線のような意味合いで作成していたものでした。
そういうわけで、過去に書いた記事(※当サイト未掲載)の中から「現状」に関わる部分を抜粋し、ここに並べていくという形で締めたいと思います。たぶんこの記事がいままでで最長だと思いますし、内容も結構重いヤツだったかもしれませんが最後までありがとうございました。
作る上での心構えとして…。アイデアから実際にモノが出来上がるまでの間に、近頃は「それが遺作になっても満足できるかどうかフィルター」みたいなものが高頻度で発動しているという点で、それまでの制作と現在との間に何らかの大きな変化を経た、という実感を明確に抱いています。ものすごく主観的な感覚ですが…。
今まではとにかく「自分が死ぬと同時に消滅してしまう想像の産物」を、極力もれなくこの世に受肉させるために作品を作っているような節がありました。しかし、実際それをいくら形にしようしても「想像の世界」は尽きることがないのですよね。
今手元にない大金を思い浮かべて億万長者の気分を味わうことも、この世に存在しない人間を思い浮かべて出会った気になることも、「想像の世界」であれば無限にできてしまう。そうしている間にも現実の身体は今まさに朽ちていく最中にあるにも関わらず、です。
正直、いつか作れなくなる日のことを今でも想像しない日はないです(昔からずっとそうですけど)。今のうちに左手でも、足でも、ペンを咥えてでも描く練習をすべきなんじゃなかろうか、とか色々思うこともあります。
少なくとも今よりは確実に衰えゆく身体に、今と変わらぬ創作への貪欲と執着を燻ぶらせたまま生きていく。そういう近い将来の苦を思わない日がなかったからこそ「やりきった」と満足できるところまで、意欲が底をつくまでやってやろうと思い続けてきたものの…
それくらいやってきた(つもりではある)上で、そんな日はいまだに来る気配もありません。恐ろしいことに、それでも「死」という何月何日だかも分からない締め切りの存在だけは絶対に揺るぎません。具体的な日取りはともかく、そうしたケツが確実に存在している以上、どこかのタイミングで人間は必ず筆を置かなければならないらしいです。
「それを思えば、あまり遊んだり憂いたりしているような時間はないんだろう」という感覚が、今では卓上カレンダーに書き込まれた予定くらいには身近な感覚になっている節があります。
色々言ってますが、いうて今までの作品のうちどれが遺作になっても絶対に自分は満足できないと思います(逆を言えばその不完全さが次を作る原動力になっている面もあるにはあります)今はそういう追っかけあいのようなことを常々やっているのですが、いつかは追いつくことがあるのか、それともこのまま最後まで走り続ける感じになるのかはまだちょっとわからないです。すべてが模索段階です。
ただ現状確かなこととして、ここで述べた「遺作」というものに対して、所謂「生きた証」とか「誰かの心の中で生き続ける何か」というような、死後なお私という人格を延命させる何かとして機能させるつもりが正直もう全然ない、というのがあります。最悪、今作った作品を最後に自分が世を去ることになっても、あるいはその作品を最後に今後作ることが叶わなくなっても、自分でそのことを許せるかどうか、くらいしか今後の自分の創作活動に求めたいことが現状、特にないです。
随分身勝手ではあると思います。しかしながら、今後しばらくはこのように勝手をやらせていただくことになるでしょう。
よくわからん長ったらしい文章だったと思いますが、ここまで読んでいただきありがとうございました。そのうちまた何か書くかもしれませんが、そのときはもう少し時間をかけて書いてみようと思います(今回はいろいろ言葉足らずで、後からいろいろ書き足す羽目になってしまったので…)。