Note #14
※noteログ
※この記事は「画像生成AI」に関する話題を含みます。
如何なる立場の方であれ、自分と立場の異なる意見を見たくない、許せないという方はご覧にならないようお願いします。
はじめに
とても奇妙な話に思われるかもしれませんが、俗に「画像生成AI」と呼ばれる技術の台頭と、近ごろ私がスケッチに対する意欲を高めていることとは密接に関係がある、という話をします。
大まかなスタンスとして、私は画像生成AIに対する推進/反対の議論に参加する積極的な意志がありません。「議論に参加する意志がない」というのは中立・あるいは折衷の立場という事ではなく、議論という土俵で戦うつもりはないという程度の意味合いです。それでも私が自身の絵画制作に画像生成AIを使用することは決してありませんし、今後もそのように作品を制作してゆく次第です。
※生成AIを使用した悪質な権利侵害(著作権に限定しない)のケースは論外すぎるのでここでは一切触れません。あれは推進VS反対ではなく犯罪者VS司法が本来の構図と思われるので。
ちなみにこれを書いている人の画像生成AI経験は、出た当初のミッドジャーニーやPhotoshop2024の標準機能を試しに触ったことがある程度です。自分の曲のタイトルとか入力して生成してもらったことがあるような。
自動改札機と「あたりまえ」
突然ですが、私が子どもの頃に考えたちょっと怖い話を紹介します。
だいたい小学生くらいの頃の話ですが、科学漫画を好んで読んでいた時期がありました。当時購読していた学研・科学の「まんがサイエンス(作:あさりよしとお)」は本当によく読んでいました。単行本を買ってもらったりもしていたのですが、巻数の古いものを読んでいくと「え、そんなの当たり前じゃない?」みたいなものが比較的新しい技術として登場していることがままあったのを憶えています。
たとえば「自動改札機」が、それです。「これまでは駅員さんが手作業で切符を確認していた」という話を前提に「自動改札が普及したせいでむしろ不便になってない?」という現時点の不便あるあるから話がスタートし、最終的には未来の可能性として「将来の自動改札はICカードでもっと便利になるよ!」が提示される、という流れだったのですが…
私がこれを読んだ当時は磁気切符が主流、つまり自動改札機が既に当たり前で、尚且つICカードはまだまだ…くらいの時代でした。
なので正直これを読んでも「自動改札機が不便」という発想というか感覚自体、まったく理解できなかった事を覚えています。「通りそこなって閉じ込められるとか、そんなことあり得る??」みたいな感じで。漫画だから誇張されているのかな?とは今でもちょっと思うのですが、実際に導入当初はそれくらい不評だったことがあるのでしょうか…。
そしてまた、それと同じくらいの感覚で「未来のICカード式自動改札」というのも全然信じられなかったのを覚えています。これこそまさに「漫画だからそういう夢のある事を描くんでしょう?」と思っていたくらいです。でも今はちゃんと当たり前になっていますね。
導入当初の「切符入れるとこ無い!罠やん!」みたいなプチ不便エピソードも、もはや共感できる人はそう多くないでしょう。
ちなみにここまでの話は、間違っても「自動改札機を生成AIに置き換えて読んでね」という意図ではないです。ここまでの話は前提で、本題はこの後です。その前に、この話で得た教訓を少し整理しておきます
- 前時代の「あたりまえ」を、後世の人間が直感的に理解するのは難しい
- 後世の「あたりまえ」を、現代の人間が直感的に想像するのは難しい
- にも関わらず「あたりまえ」は、わりと本当に覆る
ぼくのかんがえたSF
それから時を経て、受験やら進路やら…という感じで将来が現実味を帯び、「絵ってほんまに食えるんかいなぁ」などという事を割かし真面目に考え始めた時分。ふとこんな事を考えました。
どんな仕事に就くにせよ、市場は強敵(ライバル)だらけだろう。しかもライバルは常に人間とは限らない。産業革命期に機械が職人を淘汰したように、今後もそういった技術革新によって失われていく仕事はたくさんあるはず。それに比べて絵は人間にしか描けない、だから絵描きは絶対になくならない仕事だ。
と、ここまで尤もらしく考えたところである一つの疑念が浮上してきます。「絵は人間にしか描けない」というのは本当か?
そう言い切る根拠は一体なんだろう?そのように「描く」という営みを疑ったとき、私は自分自身を納得させられるような答えを何も出せませんでした。どう頑張っても「人間には感情が、知性が、感性が、祈りが…」とかいう、誰から教わったかもわからないスピリチュアルじみた受け売り文句しか出てこないのです。
本当に「絵を描く」ことができるのは人間だけなのだろうか?ただ、誰かにそう教えられたから、常識としてそう思い込んでいるだけなのではないだろうか?そんな疑いが少しずつ確かにったところへ、追い打ちをかけるように脳裏を過ぎったのが先ほどの「自動改札機」でした。
仮に現状「絵は人間にしか描けない」というのが常識だったとして、この先も本当にその常識が覆ることは無いと言えるのか?それこそ「全自動絵が上手いマシン」みたいなものが発明され、誰もが自分の思い描く空想をワンタッチで形にできる未来が訪れてしまったら、そんな未来においてもまだ「芸術は感性が大事なんですよ!」などというスピリチュアルは通用するのだろうか?
科学史において、かつて人類には触れ得ぬ神秘とされた「遺伝」という概念が、のちに物理的な構造に過ぎないことを研究によって暴かれたように、「全自動絵が上手いマシン」によって描くという営みの正体が暴かれてしまう近未来。そんなものが将来訪れない保証はどこにもないのに、今こうして人間が鉛筆を手で削って、画用紙を潰して絵を描く理由っていったい何なんだ?
そういう具合のことを事あるごとに漠然と考えるようになりだしたのがティーンだったと記憶しています。(なお、ここら辺は既に自分の中で答えが出ており、過去にそういう記事をいろいろ書いています)
なんというか、思春期の子どもが思い描く杞憂だったはずの空想がどういうわけか現実になってしまったんですよね。
産業革命≒AIのある時代
現実に画像生成AIが登場した直後、やはりあの技術を率直に脅威と感じたのは事実です。しかし、同時に真っ先に頭に浮かんだのは、大学時分に睡魔に耐えながら聴いたデザイン史の講義の冒頭部分でした。
超ざっくり言うと、現代で言うデザインという概念は産業革命を機に生まれた概念だそうです。それ以前の時代、例えば職人たちが「椅子」を創るのであれば、椅子の形も、用途に合わせた素材選びも、組み立ても最初から最後まで全て職人が担っていた。
しかし産業革命を経て製造が機械化されると、それまで職人が担ってきた手工業はより生産性の高い機械にとって代わられる。その結果起こったことは、なんか格式ある「風」の装飾が施された家具の数々、なんか古典的だし持ってるだけで教養がある「風」になれる調度品の数々…
そういう風に工場で安価に大量生産された「それっぽい品々」が庶民に行き渡り、工場主はさらなる利益を追い求め、さらなる粗悪な品が世に溢れかえり、労働者は搾取され、環境汚染は極まり…。
ここまでは正に小学校や中学校の頃、歴史の授業でよく耳にした「機械化が人間の仕事や大切な何かを奪ってしまいました」という構図の物語だと思います。実際本当にこんな感じだったのかは知りませんが。
なんとなく、こういう「豊かさ」と「退廃」とが表裏一体の空気とか、文化が大量生産、大量消費に組み込まれていく感じであるとか、そういう時代感がどうにも現代と重なるように思えたというのもあって、画像生成AIを見たとき率直に思い起こされたのも「これ」だったというわけです。
ここまでは正に世も末みたいな話です。
しかし、デザインの歴史はここがスタート地点だった。
先ほど申し上げたように、それ以前の時代…例えば職人たちが「椅子」を創るのであれば、椅子の形も、用途に合わせた素材選びも、組み立ても最初から最後まで全て職人が担っていた。しかし産業革命を経て製造が機械化されると、それまで職人が担ってきた手工業はより生産性の高い機械にとって代わられる。
つまり、実際に組み立てるのは機械と労働者で、どんな椅子を創るかは別の人。かつての手工業は機械化によって「計画する人」と「作る人」に分業されてゆくのですが、この「計画する」という新たな仕事がその後デザインと呼ばれ、のちに新たな創造の時代を作り出してゆくわけです。その文脈の中では、大量生産・大量消費を批判し手工業に立ち返ろうという運動もそれはそれで色々あったわけで。
デザイン史の講義の冒頭は、こんな感じだったと記憶しています
だんだん長文がめんどくさくなってきたので箇条書きでいきます。
■生成AIに対する権兵衛るのスタンス
・推進/反対の議論はしない
・自分の創作に生成AIを使うことはない
■現状の生成AIに対する考え方
・将来、いま以上に「あたりまえ」の技術になっていてもおかしくはない
・そうなった場合、「創作物の価値」に対する考え方は今以上に変容していくはず
・それがどんなにイヤでも「生成AIが存在する以前」に時代が逆戻りすることは不可能
・それはそれとして現状の生成AIや法制度には問題がありまくる
■まとめ
・歴史上、人類が技術革新の功罪と向き合うのは初めてのことではない
→それを先人たちがどのように乗り越えたか、我々は先例に学ぶことができる。
・そもそも創造とは、過去にない新しい価値を生みだす営み
→創作って「あたりまえ」を覆せるんじゃなかったっけ
結論
技術開発を推進するか・制限したいかに限らず、「AIのある時代」において自身の創作をよりよく模索した事実が後世に訴えられることって色々あるのでは(どのような立場であれ、創る営みが本懐であるならば)。
だったらもう、こっちのやることは一つしかないわけで。