Note #43

こうして個人サイトを運営していて思うのは、SNSの投稿と比べ偶然ここへ誰かがアクセスする可能性はほぼゼロに近いのが現状、ということです。
有難い話だと思います。Xにせよ何にせよ「朝食なに食った」レベルの情報さえ否応なく知らない誰かに繋げようとするのが現行のSNSの仕様ですが、ここはそういう場所ではないということなので。このノートには今後もそのように、あえて見に来る意志を持った人だけがアクセスできる場であってもらいたいです。
ただの愚痴からある種のイデオロギー、ブランコで一回転した的なしょうもない武勇伝でさえ、半強制的に全世界と繋がってしまうから色々と妙なことになるんですよね…。
昨晩は久々に考え事をしました。議題は「孤独」です。
一応ボカロPっぽいことをしているので、SNSで接点のある方は絵よりも音楽関係の方が多いです。そこで一時期話題になっていたのが「作った曲をどの環境で確認するか」という話でした。最終的な聴こえ方を確認する方法がスピーカーなのか、ヘッドホンなのか、カーステレオなのか、みたいな話、つまり曲の用途や聴くシチュエーションをどう想定しているか、という話です。
私の場合はスマホ+無線イヤホンで確認するのですが、これは私が普段音楽を聴くときの環境がそれだからです。そして、自分の楽曲にそれ以外の用途を想定したことも特にはありません。そもそもクラブに出入りした経験もなく、ライブやコンサートにも付き合いでしか行ったことがない。それ故に自分以外の誰かと共有するための音楽というものをほぼほぼ考えたことがない。件の話題で気付いたことは、音楽にせよ何にせよ私の作品はすべて孤独を前提としている、ということでした。
そこからもう少し踏み込んで話をしますと…。
私にとって孤独とは、自身の作家生命のために自ら選ばなければならなかったもの、という感覚のそれでもあります。ここでの「孤独」の定義は、他者との共有や共感を目的としない生き方のこと、他者との関係性を前提としない自我の在り方のことです。もっとかみ砕いて言うなら、誰が見ていようといまいと私はここにおるんじゃいというそれです。
これだけ言うと何のこっちゃという話ではあるのですが、その前提として私は軽度の自閉症を持っており、他者との共感が苦手であったり、「心」「感情」といった曖昧な事柄を理解しにくい特性を持っている、という事実があります。幼少期に診断があれば早いうちからソーシャルスキルの訓練を受けられたのかもしれませんが、私の障害が発覚したのは成人後なので特にそういった支援もなく。独力でどうにか社会に適応していくしかなかった中で、「心」や「感情」といったものを私は次のように解釈しました。
たとえば「空気」は目に見えませんが、風になびく布、熱せられてゆらめく陽炎などを通してその存在を視認できます。それと同じように「心」や「感情」も、ある種の洞察によって視認が可能になる。つまり、「心」とか、「感情」とか、「魂」とか、「人格」、そういったものは、周囲の環境や他者との関係性によって可視化されるもの、という解釈です。つまり、人間のアイデンティティと呼ばれるものは自ずから有無を自覚できるようなものではなく、他者との相対によって浮彫となる相違に過ぎない。私の目を通した「人間」は、今でも直感的にそういう見え方をしています。理論ではなくただただ感覚的に、人間という生物に意志があるようにはあまり見えていないし、「心」や「感情」が何より尊いもの、という気もしない。ただ他の人達が大事そうにしているから無下にはできないけれど、その存在は何か疑わしい。そういう感覚が今でもあります。
とはいえ、そんな退廃的な人間観を自らすすんで信じている、という訳でもないと言いますか…。というのも、古典的かつ現代においても通用する創作物…幼いころに一度は触れる昔話・おとぎ話の類ですが、その多くは明らかにそんな人間観の物語ではないからです。結局いつも「心」とか、「愛」とか、そういうものが大事という結論に落ち着く。宗教観や文化の違いにより心や愛の定義が揺れることはあっても、結局はそれ。正直ぜんぜん納得できないものの、古くから連綿と受け継がれてきた物語の中にある不文律のエッセンスが「それ」である以上(歴史上、多くの人間がそう確信してきた価値観である以上)、疑わしくともそこに何かがあるんだろう。そういう感覚も否定はしきれない。
他者との関係、他者との相対に依らない「心」というものが本当に可能なのか、それを疑いようもなく実感できる、とはどういう状態なのか。ここで「孤独」が登場します。「他者との相対に依らずとも、己自身は肉体を伴って確かに実在する」という事実を「他者との関係性を前提としない」孤独という在り方こそが逆説的に証明し得るだろう。月並みですが、そういった孤独という在り方への祈りや信仰のような側面が自分の価値観なり何なりにはある、という話です。
これまでにも色々話してきたとおり、作風やら何やらが結構頻繁に変わる方ではあるのですが、今思うとこの辺りの機微だけが唯一ブレなかったところかもしれません。孤独の信仰をここまで強く自覚したり、実践するようになったのはつい最近のことですが、そうなる以前からずっと私はここにおるんじゃい的な歌詞を、それこそ十数年単位で書き続けてはいたので。